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バドミントン梶原大暉19歳の新星をwiki風に解説(経歴や大学は?)

パラバドミントン界の超新星‼

19歳の梶原大暉選手は元野球のピッチャー。

その時の体力と瞬発力が、今、力強い武器となっています。

しかも、爽やかなイケメンです。

そんな、梶原選手のパラバドミントンを始めたきっかけや出身高校や通っている大学などを調べて見ました。

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梶原大暉選手のプロフィール

名前…梶原大暉(かじわらだいき)

生年月日…2001年11月13日生まれの19歳(2021年8月現在)

出身地…福岡県福岡市

趣味…福岡ソフトバンクホークスの試合を見ること。

好きな野球選手…今宮健太選手

パラバドミントンクラス…WH2

2018年から日本障がい者バドミントン連盟次世代アスリート



梶原選手の主な戦績は?

2019年

  • デンマーク国際大会男子シングルス1位、男子ダブルス1位
  • ヒューリック・ダイハツJAPANパラバドミントン国際大会(東京)男子シングルス3位、男子ダブルス3位
  • トルコ国際大会男子ダブルスベスト16
  • ドバイ国際大会男子ダブルス2位

2017年にパラバドミントンを始めていますから、その急成長ぶりがわかりますね。

梶原選手の高校と大学

梶原選手は福岡県福岡市にある『福翔高校』を卒業しています。

地元では市立福岡商業高校の方がわかりやすいかもしれません。

歴史は古く、明治19年5月に『博多商業学校』として誕生しました。

平成12年に総合的な学校になり『福翔高校』と名前が変わっています。

2021年の福翔高校の偏差値は58。

ちょっと進学校といったところでしょうか?

梶原選手は2020年4月に、『日本体育大学』へ進学しています。

しかし、コロナウイルスの流行でオンライン授業になってしまい、バドミントンの練習は地元福岡のチームでしています。

早く、大学に通えるようになるといいですね。

梶原選手がパラバドミントンを始めたきっかけ

梶原選手は中学校の野球チームを卒部後、ソーシャルワーカーの勧めもあって、福岡県のパラスポーツ大会に参加しました。

その時がパラスポーツとの出会いです。

パラスポーツにいろいろな障がいの方が、それぞれのやり方で参加していることに感動します。

そこで、高校へ進学するのと同時に自らも挑戦を始めます。

パラバドミントンを選んだわけ

ソーシャルワーカーの方はいくつかのパラスポーツを梶原選手に紹介します。

その中から『パラバドミントン』を選びました。

理由は「頭上でラケットを振る動作が野球の投球と似ていたから」です。

本当に、野球が好きなんですね。

それから、地元福岡の『TEAM SHUTTLE-ONE』

に練習見学へ行きます。



パラバドミントンを見た衝撃

まず、競技用の車いすにビックリしたそうです。

形や作りが自分がいつも使用している車いすとは全く違ったからです。

しかも、その車イスをつかって、バドミントンコートの中を縦横無尽にすごいスピードで、しかも、今までの自分からは考えられない動き方をするのです。

「これだ!」

そう思って直ぐに入会。

練習を始めますが、今度は車いすを思うように使えないことに愕然とします。

梶原選手におとずれた転機

趣味程度で始めたパラバドミントンでしたが、趣味といっても、全く車いすが思うように動かせずにいたそうです。

同じチームの人たちが軽々と動かす様子を見て「とても、同じ人間とは思えなかった。」そうです。

もちろん競技を始めて4か月後に挑戦した初の試合は、散々な状態で負けます。

「手も足も出なくて悔しかったです。もっと練習して勝ちたいと思いました。」

梶原選手の心に火が付きました。

本格的な練習に取り組みだしたのです。

梶原選手まとめ

中学2年生のある日、自転車に乗っていて、交通事故に遭い、右脚切断、左脚マヒになってしまった梶原選手。

一時は大好きな野球ができなくなったことに絶望します。

でも、そんな梶原選手を一人じゃないと救ったのは、野球チームの仲間でした。

つらい、リハビリにも耐えて頑張る梶原選手は高校生になると、ソーシャルワーカーの方の勧めでパラスポーツを始めます。

それが、パラバトミントンです。

ここも、始めはうまくいきませんでした。

しかし、試合に負けたことで梶原選手はパラバトミントンに真剣に向き合うようになります。

元野球のピッチャーである利点を生かしてグングンと頭角を表し、ついに日本代表選手になったのです。

梶原選手の両親や周りの人への思い

梶原選手は東京パラリンピックを目前に控えて、ご両親へ感謝の気持ちを述べています。

今まで、練習に送り迎えしてくれた一番の理解者であるご両親への気持ちは並々ならぬものでしょう。

また、今まで支えてくれた仲間やお世話になった方々のためにも「勝つ」と気合を入れています。

「バトミントンは個人競技ではありながら個人競技ではないなと思います。」

そう語る梶原選手。

たくさんの人への思いとたくさんの人たちからの声援を受けて、大きな舞台で最高の結果が残せますように応援しています。

最後まで読んでくださってありがとうございました。